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中国 反日デモ [中国]

かつて支那(中国)兵は略奪と殺人は天与の権利であるかのように
日本人居留民に対して掠奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽くしていた。
頭部を切り落とし、眼球を抉り取り、胸腹部断ち割り、内臓引出し、陰部突刺をする等
支那軍特有の猟奇的虐殺が日本人同胞に対して行われていた。
これは日清戦争以降 お決まりの惨殺パターンと言っていい。

日本人居留民に対してもこのありさま。
もしこれが戦時中で日本兵が捕虜にでもなろうものなら
それは想像を絶する凄まじい拷問と苦痛が待っていることになる。
「生きて虜囚の辱めを受けず」とは そういうことか。

それは昔話だけではない。
支那(中国)兵(人民解放軍)はチベットやウイグル、モンゴルなどで
掠奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽くしてきた。
そしていまもチベット僧侶に拷問を加えている。
いまも女の胎児を売り、それを料理にして食っている。
連中は我々日本人とは全く別の人種。

支那中共.jpg

身近にも支那中国人がいる、ものすごくまともで優秀。
しかし中国に6-7年赴任し北京語/広東語が完璧で
部下として中国人とつきあっていたベテラン曰く、
中国人は信用できない。

短絡的に目の前の経験に学ぶのではなく、
歴史に学ぶことが必要だ。

参考:
胎児を喰らう シナ人の民族性 と 小沢一郎
http://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-09-2

そして今、尖閣諸島に関連させて支那(中国)大陸100都市で反日デモ。
支那中共政府はバスを何台も手配し暴徒を放ち反日をさせ回収する。
横断幕に毛沢東肖像画も用意する、尖閣及び琉球奪還などとスローガンを掲げさせる。
しかしチベット、ウィグル、内蒙古、寧夏回族自治区では反日デモをさせない、
たちまち反政府デモ暴徒に転化するからだ。
そして中共政府はパナソニックやトヨタを襲撃させ破壊させて放火させた。
それを日本政府に責任があると言っている。

日本政府はまともな外交をしろ:
「日本はこれを奇貨として、通貨スワップの全面停止措置をとれる。
 中国資本の水資源買収との規制も法制化を急げる。
 新潟の五千坪の中国領事館契約も白紙に戻せる。
 この絶好のタイミングを外交得点に活かすべきではないか。」

参考:
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24(2012)年9月16日(日曜日)
http://melma.com/backnumber_45206_5653793/
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24(2012)年9月16日(日曜日)弐
http://melma.com/backnumber_45206_5653927/

中共政府は毛沢東の大躍進政策で15年で英国の経済力を抜くと豪語しながら、
経済を衰退させ農業を破壊し3000万人以上と言われる自国人民を餓死させ
文化大革命では平等だ上下はない、とか言って学者や教師、政敵などを殺害、
1000万人以上の自国人民を拷問殺害している、と言われている。
そんな毛沢東は支那中国人民から中国共産党の英雄扱いされている。
遠慮や友愛はいらない、日本政府はまともな外交をすればいい。

毛沢東.jpg

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友愛と南京事件:

1926年 蒋介石率いる国民革命軍(南軍)は
支那大陸の統一に広東を出て北上(北伐)を開始した。

1927年 内戦が南京へ迫るなか揚子江上の軍艦桧(ひのき)から
荒木亀雄海軍大尉の他に兵士9名、通信士1名が派遣され
領事館に集められた日本人は合計約100名ほどになっていた。
そして前門を閉ざして内に土嚢を積み機関銃を備えつけ、
兵士は小銃を持ち武装して警戒に当たっていた。

やがて南京では壊滅しつつある北軍の敗残兵が逃げ
南軍が広大な南京城内に入城してきた。

略奪は敗残部隊がするのが常だった、と思った。
10人の兵士で数千の支那兵に武力対抗することは不可能でもある。
それに支那兵や一般民衆の敵愾心を挑発してはいけない。
したがって土嚢や機関銃は撤去する方が有利と領事は判断した。
荒木大尉も同意し、土嚢と機関銃は全て撤去し兵士の武装も解除し
武器は一括格納したうえで領事館正門の門扉を開いてしまった。

友愛してしまったのだ。

すると間もなく支那兵が乱入、これを止めようとした木村警察署長は撃たれた。
支那兵は金庫の鍵を要求し、これを拒否した根本博少佐は殴打された。
そして支那兵は徹底的に略奪を開始し用意した自動車や馬車に積んでいった。
「…婦人は幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け叫喚悲鳴聞くに忍びず」
と盛岡領事は報告している。
支那兵は150~200名に達し略奪は3時間余り続いた。
やがて一般民衆、女子供を含む数百人の支那人が略奪に加わり
床板、便器、空瓶にいたるまで一物も残さずに持ち去っている。

「その日の夕方、我が官民一同は領事館を引揚げ揚子江上の軍艦に収容されたが
 領事館の警備に任じていた荒木海軍大尉は事件後の 3月29日、
 軍艦利根艦上にて引責自決を図った。」

英米は、彼らの領事館、学校、会社も略奪されると
揚子江上の軍艦より南京城内砲撃、発射弾数は200に達した。
しかし日本は “城内砲撃はその虐殺を誘致する惧れあり”として砲撃はしてない。

友愛してしまったのだ。

やがて支那兵・支那人は英米に恐怖し、しかし日本に対しては強気になり
臆病な日本人には何をしてもかまわない、ということになる。

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友愛と済南(さいなん)事件:

1928年 蒋介石は第2次北伐を開始した。
やがて今度は済南が戦場の危機になり現地の日本人に危機が迫った。
現地からの出兵要請を受けた田中首相は深く懊悩した末
遂に居留民保護のためやむなしと決心し済南に出兵させた。

日本軍は済南城隣接に守備地区(商埠地)を設けて居留民を収容保護した。
これに対して蒋介石は 治安は中国側が絶対に確保するので
日本軍の警備を撤去されたいとの要請があり、
これを信じた日本軍は夜を徹して防御工事を撤廃してしまった。

友愛してしまったのだ。

すると既にその朝には支那兵の一部が商店を襲撃し略奪をはじめた。
日本軍が現場に急行すると支那兵は遁走し兵舎に隠れ銃撃をしてきた。
これにより日本軍と支那軍の間が交戦状態になり
支那兵による乱射略奪は市内に拡大している。

そして支那兵は停戦を呼びかけ白旗で近づく日本軍の軍使を射殺もしている。
市内は凶暴な支那兵による修羅場になっていった。

5/6付 東京朝日新聞報道:
「南軍鬼畜と暴れ狂う」
「日本人は凶暴なる南軍のため盛んに虐殺されつつあり」

南京駐在武官・佐々木到一中佐の手記:
「予は病院において偶然そのしたいの験案を実見したのであるが酸鼻の極だった。
 手足を縛し手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、
 あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。
 ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
 焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。
 わが軍の激昂はその極に達した」

外務省公電:
「腹部内臓全部露出させるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、
 顔面上部を切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
 全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの二」

済南医院での検視結果:
---
西条八太郎(28歳):
 全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
 ○○に約二糎平方(2c㎡)の木片深さ27糎(cm)突刺しあり。

大里重次郎(28歳):
 …死因は顔面の挫傷と脳底の骨折なり、
 この状態より察するに棍棒やうの器具にて網田された結果ならん。
 顔面挫傷と背部の刺傷は、周囲に出血夥(おびただ)しきに察するに、
 死者生存中に行われたるものの如し。

多平真市(34歳):
 右前東部に骨折伴う挫創あり。玄能(大型金槌)様の器具を以て
 打撃せるものの如く、頭蓋骨も美事に骨折を伴ふ。
 唇下部より臍(へそ)に至る延長2尺の切傷より小腸を露出す…。

井上邦太郎(30歳):
 前頭骨・両眼・左上顎骨及び鼻を欠損す。
 両眼球全くなし。
 顔面は鳶口様のものにて打たれるものの如し。
 死因は顔面の惨酷なる挫創なり。

藤井大次郎(40歳):
 広汎なる腹部の切創にて腹腔の内臓全部露出す。
 ○○は根部より切断さらる。
 右眼球は見事に摘出せらる。

宮本猶八(55歳):
 ○○は鋭利なる刃物にて根部より切断せらる。

高隅むめ(50歳):
 ○○には深さ七寸の刺創あり。
 :

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通州事件:

1937年に国民党に紛れた共産党による日本軍への発砲による盧溝橋事件が発生。
そしてその3週間後の 7/29には通州事件が発生、過激な殺戮が行われた。
支那兵は僅少な日本軍民を攻撃し日本人居留民を殺戮した。
戦争をしかけられ続けた日本。

東京裁判で虐殺現場を目撃した証人の宣誓公共書の内容:
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邦人救援に通州へ急行した
天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長 萱島高の証言:
「旭軒(飲食店)では40から17-18歳までの女7、8名が皆強姦され、
 裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、
 その中4、5名は陰部を銃剣で突刺されていた。
 商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが
 首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、
 言語に絶したものだった」

邦人救援に通州へ向かった第二連隊歩兵隊長代理 桂鎮雄の供述:
「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。
 足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。
 本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、
 上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。
 陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。
 帳場や配膳室は足の踏み場もない程 散乱し略奪の後をまざまざと示していた。
 女中部屋に女中らしき日本人婦人の4つの屍体があり
 全部もがいて死んだようだった。
 折り重なって死んでいたが1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
 帳場配膳室では男1人女2人が横倒れ、或いはうつ伏し或いは上向いて死んで居り、
 闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだった。
 女2人は何れも背部から銃剣を突き刺されていた。
 階下座敷に女の屍体2つ、素っ裸で殺され局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
 1年前に行ったことのあるカフェーでは縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。
 その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。
 子供は手の指を揃へて切断されていた。
 南城門近くの日本人商店では主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、
 胸腹の骨が露出し内臓が散乱していた」

近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。
彼等は女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、
全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引出し、処刑したのであった。
その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ一人これを知る者もなかったが、
当日近水楼に泊り合はせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、
北平に辿り着いた結果、世界はその惨劇の実相を知ったのであった。
安藤氏の手記は「絶対支回顧録」に、体験談は寺平前掲書に収録されている。
安藤氏の体験記は「通州の日本人大虐殺」として『文藝春秋』昭和30年8月号に掲載され、
その後『文藝春秋にみる昭和史』第一巻(昭和63年1月)にも転載されたが、
それには、いかにも戦後のものらしい解釈がつけ加えられている。

支那駐屯兵第二連隊小隊長として7月30日、
連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人によれば
「守備隊の東門を出ると殆ど数間間隔に
 居留民男女の惨殺死体が横たわって居り一同悲憤の極に達した。
 『日本人はいないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、
 鼻に牛の如く針金を通された子供や、
 片腕を切られた老婆、
 腹部を銃剣で刺された妊婦等が
 そこここの埃箱の中や壕の中から続々這い出してきた。
 ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。
 婦人という婦人は14、15歳以上はことごとく強姦されて居り
 全く見るに忍びなかった。
 旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り
 陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、
 口中に土砂をつめてある者、
 腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかった。
 東門近くの池にはクビを縄で縛り両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、
 一家6名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
 池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」

---

戦後日本を占領したアメリカGHQは WGIP(War Guilt Information Program)で
敗戦利得者や反日サヨク、反日在日南北朝鮮人、NHKや朝日新聞など
マスコミを使って日本軍は悪だったと宣伝した。
日本軍は支那大陸で猟奇的虐殺を繰返したと反日日教組学校教育がされ
N(イヌ)HKや朝日(チョウニチ)新聞などが捏造と嘘の宣伝/プロパガンダをしている。

猟奇的殺戮をしたのは支那兵であり日本兵ではない。

かつての日本の軍隊は世界で最も質の高い教育と訓練を経て
世界で最も厳しい軍規で世界で唯一 国際法を守った組織だった。
奇跡の軍隊、誇り高い軍隊だったのだ。

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参考:


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高山正之 異見自在 (2007年6月7日号)
「残忍な民との付き合い方」の一部:

もう一つが日本の成長飛行時間をもつ故・森和人日航機長の体験談だ。
森さんは戦前、中華航空の乗員として上海・大場鎮飛行場に赴任したが、
のっけに聞かされたのが石家荘付近で不時着し、
そのまま行方不明だった先輩操縦士の救出のニュースだった。
生還は喜ばしい知らせだったが、ただ操縦士は歯を抜かれ、
両手の指もすべて切断され、ほとんどは廃人状態だった、と。
「それが蒋介石派の手口で、歯を抜くのは日本人が舌を噛んで自殺するから。
 指は抵抗したり逃げだしたりしないように切り落すと聞かされた」
しかし共産ゲリラはもっと残酷だった。
姉妹航空会社の満州航空乗員がエンジン故障で不時着した。
救援隊が現場に着くと操縦士は首まで地面に埋められて耳と鼻は削がれ、
両の眼に針金が通されていた。
「絶命していたのが救いだったとみんなは話していた」
因みに彼らは針金をよく使う。
支那事変で日本軍が動くきっかけとなった通洲事件にも登場する。
この事件は中国人保安隊が日本人居留民二百二十人を虐殺したものだが、
とくに旭食堂は酸鼻を極めた。
男は両目をえぐられ、女性五人は強姦されたうえ
陰部に銃剣を突きたてられて殺害されていた。
旅館近水楼では十九人の宿泊客が殺され、女中四人が一晩中暴行されたあと、
鼻や喉を針金で突き通してつながれ、空き地に引き出されて処刑された。
話を戻して。
不時着した民間機の乗員でもこのありさまだから、
ましてや戦闘機乗りは「敵の砲火より(不時着の原因になる)エンジン故障が怖かった」
と広東攻略戦に97式艦上攻撃機で参加した日航の後藤安二氏は語っていた。
「爆撃を終えて三壮島の基地に戻るとき僚機のプロペラが止まった。
 彼は眼下に広がる水田に突っ込むと合図して編隊を離れた」
が、そんなのどかな景色の中では人はそう簡単には死ねない。
「半月ほどして彼が不時着して捕まった、
 そして指を切られ、歯を抜かれ、鉄格子のはまった小さな木箱に押し込まれ、
 広東に鉄道で護送されるという情報があった。
 部隊が出撃してその列車を爆撃した。彼の死に勝る苦痛を終わらせてやるためだった」
日清戦争のおり、山縣有朋も
「敵国は極めて残忍の性を有す。生摛となるよりもむしろ潔く一死を遂ぐべし」
と訓示している。
南京で不時着した操縦士は、だから腹を切った。

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