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神風特攻 と 靖国神社 [靖国神社]

War Guilt Information Program =WGIP =戦争犯罪情報計画:
報道と教育を通じてアメリカの都合に良い歴史観を日本人に植え付けることを目的とした計画。
その最初のプロジェクトが GHQ/CIC(連合国軍総司令部民間情報教育局)によって実施、
昭和20年12月8日~10回連載にて、全国の新聞に「太平洋戦争史」が連載され、
満州事変から終戦に至るまでの日本の「侵略戦争」を強調した
続いて昭和21年2月まで、NHKのラジオを通じて「太平洋戦争史」をドラマ化した
「真相はこうだ」の放送も開始された。

「太平洋戦争史」も「真実はこうだ」もデタラメである。

共産党員が紛れ込んだGHQは公職追放令で20万人の愛国者を社会の要職から追放し
反日共産党員や反日在日南北朝鮮人や敗戦利得者を要職においた。
日本軍は悪だった、日本軍部は悪だった、国民は犠牲者だった
とデタラメを言う連中が昇進し利権を手にした。
アメリカが民主主義を与えた、日本は平和になった、国民は救われたと
デタラメを言う連中が昇進し利権を手にした。
GHQは7年弱を通じて日本を占領し言論統制、手紙新聞の検閲、神道指令など
あらゆる手段を通じて日本をクサし敗戦利得者に利権を与えた。
そんな敗戦利得者の末裔たちが日教組、大学、歴史家、政治家、テレビ、新聞に跋扈する。

そして連中は日本を、皇室をもクサし、そして神風特攻をもクサす:
「「国家から死を強要された学徒」に、私は涙がとまらない」だとか、
「<人間>が<兵器>になることを拒みつづけた叫び」だとか、
「不条理な運命を受け入れる以外に道がなかったあの時代の真の残酷さ」だとか、
微に細に神風特攻に ”おぞましさ” を脚色し “おぞましさ” の厚化粧をし続ける。

日本人に真実の歴史を知ってもらっては困る連中が跋扈している。
神風特攻の真の意味を知られては困る連中が跋扈している。

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ポール・クローデル(劇作家、詩人、日本駐在フランス大使(大正10年-昭和2年)、
昭和18年(1943年)の秋、パリの夜会のスピーチ:
「私がどうしても滅びてほしくない民族がある。それは日本人だ。
 あれほど古い文明をそのままに今に伝えている民族は他にない。
 日本の近代における発展、それは大変目覚ましいが、不思議ではない。
 日本は太古から文明を積み重ねてきたからこそ、
 明治に入り欧米の文化を急速に輸入しても発展できたのだ。
 どの民族もこれだけ急な発展をするだけの資格はない。
 しかし、日本にはその資格があるのだ。
 古くから文明を積み上げてきたからこそ資格がある。
 彼らは貧しい。しかし、高貴である」

フランス人ジャーナリスト、ベルナール・ミローの著書:
「日本人の自殺攻撃法が、考え方の上では太平洋戦争中に突然生じたものでなく、
 この国の過去にさかのぼって、以前から存在していた考えをここで実行に移したもの」
「戦時中の日本人はそれらの先例に考えを借り、論理的に、そして自然にその道へと歩んだ」

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特攻隊員になることに「強制」や「命令」はなかった。
そして特攻を無駄死だと言う連中は護国に特攻をした先人たちへの冒涜である。
無駄死では決してない。

神風特攻は敵に対して物理的に、そして精神的にも驚愕し震撼する過大な影響を与え、
そして今の日本人にも、そして将来の日本人にも 日本人としての矜持を与え続ける。
日本人の心の奥深くには 神風特攻の精神、国を護る、国を死守する日本精神が隠れている。

---
実際の神風特攻の戦果はどうであったか…

戦史研究科の原勝洋氏は、
機密解除された米海軍の極秘文章を調べた結果、
特攻は一般に考えられているよりも、遥かに効果があったと述べている。

「特別攻撃隊全史」(財団法人特攻隊戦没者慰霊平和紀念協会、平成21年):
昭和19年10月20日から昭和20年8月15日にかけて、
約10ヶ月間にわたって出撃した陸海軍の特攻機は、
合計3461機(陸軍機1094機、海軍機2367機)で、
特攻戦死者は、合計4379名(陸軍1844名、海軍2535名)となっている。
また回天特別攻撃隊の戦死者は合計89名となっており、
震洋特別攻撃隊の戦死者は合計1085名で、
陸軍の海上挺進戦隊の戦死者は合計265名であった。

機密解除された米海軍機機密文書は、
1944年10月から翌年3月までの5ヵ月間の記録で、
体当たり攻撃356回、特攻命中140機、命中率39%、
特攻機至近の自爆による被害59機、至近自爆機被害率17%、
合計特攻効果率56%、
命中艦船130隻、沈没艦船20隻
という大戦果をもたらしていたことを暴露している。
 :
米海軍対空戦闘報告書から得た記録によると、
1945年4月中の先頭報告電報から記録集計は、
さらに日本軍の航空特攻効果が拡大したことを示していた。
173機による体当たり攻撃が報告され、
そのうちの106機(61%)が命中を記録、
17機(10%)は至近内自爆で被害をあたえていたことが明らかにされたのである。
艦船87隻が特攻機の命中を受け、そのうち5隻が沈没している。

だが、この極秘文書はあくまでも、昭和19年10月から翌年4月までの
特攻の記録であって、5月以降の記録がないことは残念である。

---
米国従軍記者ロバート・シャーロットの回想録:
「フィリピン諸島の各基地から飛来した特別攻撃隊の
 アメリカ高速空母機動隊部隊に対する攻撃は、一層、被害甚大であった。
 すなわち10月29日には大型航空母艦フランクリンが
 飛行甲板に40フィートの大穴を開けられ、アメリカ本国に修理のため回航された。
 ついで、高速軽空母ベロー・ウッドにも、また特攻機が体当たりをした。
 10月5日には大型空母レキシントンが日本爆撃機の体当たりを食って損傷し、
 死傷者182名を出した」

第三艦隊司令長官ハルゼー大将:
「10月末日、正規空母ワスプの搭乗員113名の健康診断をしたところ、
 わずか30名が戦闘に耐えうる状態で、他は全員過労のため、
 休養を必要とする状態であった」が、
「これは、それから始まる地獄の、ほんの序章にすぎなかった」のである。

---
やがて米軍は神風特攻対策を検討し実施した。
その一つが対空レーダーを装備した16の駆逐艦、
レーダーピケット艦で艦隊の周囲に広大な対空警戒網をはりめぐらせた。
巨大なレーダー網で特攻機を事前に補足し戦闘機隊が特攻機を攻撃、
高速戦艦は濃密な弾幕を準備し低空からの侵入も防止した。
これにより不意をつかれた日本軍機の17%が阻止され、
残りの50%が対空砲によって阻止された。

これに対して日本軍は「菊水3号作戦」により先ずは特攻をレーダーピケット艦に集中させた。

米艦隊ターナー大将麾下の幕僚:
「われわれはレーダー哨戒艦としては、艦隊中の優秀艦を抜いてこれに当てた。
 哨戒所につけと命ずることは、まるで死刑の宣告を与えるようなものだった。
 実際こぎれいな つやつやと光沢のある駆逐艦が哨戒所につくために、
 北の水平線に消えていゆくのを見送るぐらい嫌な気持ちのものはない。
 駆逐艦の機関も大砲も完全で、乗員もピチピチしているのに、
 数時間たたないうちに、ひどい姿になって曳航されながら帰ってくるのだからな」

これによりレーダー網が破壊され
昭和20年4月には 173機の特攻機のうち、実に61%(106機)の特攻機が命中し、
10%(17機)の特攻機が至近弾となって敵に損傷を与えたのである。
言い換えれば、全体の71%(123機)の特攻機が敵艦船に損傷を与えたことになる。

当時の魚雷と大砲の命中率が 2%前後だったと言われていることから見ても、
特攻隊がいかに敵軍を恐れさせたかがわかるだろう。
現に、米国戦略爆撃調査団は、「カミカゼ」によって精神に異常をきたした者が
50%増加したと報告しているほどである。

歴史研究家トーマス・B・ビュエル海軍大佐:
「レイモンド・A・スプルーアンス海軍大将は、
 「カミカゼ」は「健全にして経済的な戦法であり、
 しかも日本人の気質に特に合致した方法である」
と述べている。

軍事評論家フレッチャー・プラットの回想録(硫黄島での特攻攻撃により米艦船の被害状況):
「その夕刻、海上はるか日本本土より長躯、飛来した神風特攻隊約50機が、
 突如低く垂れ込めた雨雲を突破してアメリカ艦隊を眼懸けて来襲した。
 そして護送用船空母艦群の中へ殺到し、まず空母「ビスマーク・シー」の船尾へ
 1機が体当たりして、魚雷庫が大爆発したちまち火災を起こして転覆沈没、死者318名を出した。
 次いで空母「ルンガ・ポイント」も神風機の自爆のため両舷に大穴をあけられ、
 さらに大型空母「サラトガ」も4機以上の体当たりを喰らって大損傷を蒙り、
 修理のため真珠湾軍港へ回航される始末だった」

そして終戦…

昭和20年8月16日未明
特攻を開始した大西瀧治朗中将は児玉誉士夫から贈られた日本刀で割腹自殺。
血の海にうつ伏せになった大西中将は駆けつけた軍医に
「治るようにしてくれるな」
「これでいいんだ。送り出した部下たちとの約束がはたせる」
との言葉を残して15時間余の苦痛に堪えながら、その夜6時に絶命した。

大西中将の遺書:

特攻隊の英霊に曰(もう)す
善く戦ひたり、深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共
其信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾 死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして、軽挙は利敵行為なると思ひ、
聖旨に副ひ奉り、
自重忍苦するの誡めともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
諸子は国の宝なり
平時に処し猶(な)ほ克(よ)く特攻精神を堅持し、
日本民族の福祉と世界人類の和平の為 最善を尽くせよ

参考:
「世界が語る神風特別攻撃隊-カミカゼはなぜ世界で尊敬されるのか」 吉本貞昭(著) ハート出版


真実はどこに・・・FLASH:
http://www.youtube.com/watch?v=imtmbp0w8cY


特攻で散華された先人、英霊たちは靖国神社に祭られている。
日本人ならば感謝の誠を捧げるべきである。

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---
靖国神社 今月の社頭掲示:
http://www.yasukuni.or.jp/history/will.php

決戦場へ征きます

陸軍軍曹 藤好京介命

昭和十九年九月三十日
東部ニューギニアにて戦死
福岡県三池郡高田村出身
二十七歳

御父上様。
御母上様。

京介は、愈々日本男子として、決戦場○○へ征きます。
電撃的出撃に、光栄と希望と武者ぶるひにて、この筆をとって居ます。
今、静かに生立ちを振り返る時、生を享けて二十六年の今日迄、
御両親様には取り分け御心配の掛け続けにて、
御高恩の万分の一も御孝養出来なかった豚児(とんじ)を御許し下さい。
何卒、呉々も御自愛になり、健やかな日を御過し遊ばす様、心より御祈り致します。
それから、自分の今後に於ける一切の事柄に関する処置は、
総て御両親様に御任せ致します故、宜しく御取計り下さいませ。
又、松田様始め、私が今迄に御世話になりました方々には、
御両親様より宜しく御伝へ下さいませ。
中林町の伯父上様にも御高齢の事とて、折角の御自愛と私の感謝とを御伝へ下さいませ。
最後に重ねて御両親様始め、兄上様方妹達の御健康とを祈って筆を擱(お)きます。

昭和十八年○月○日

藤好京介

藤好虎秀様
藤好タキ様

最後の外出は、とても愉快でした。ブドー酒の乾杯で幸先よいです。

(原文のまま)

---
靖国神社 崇敬奉賛会:
http://www.yasukuni.jp/~sukei/

靖国神社 遊就館:
http://www.yasukuni.jp/~yusyukan/

凛として愛:
http://www.youtube.com/watch?v=GEz5rxhkFWM


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