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立派だった旧日本陸軍 佐倉連隊 [近代史+ (日本)]

日清戦争が始まるころの日本では
それぞれの将兵がしっかり教育をうけ道徳を学び、
重厚な歴史と伝統に支えられた高い道義心をもって大和の盾となる
世界で最も礼儀正しく勇敢で規律正しい日本軍が組織された。

千葉県佐倉市に国立歴史民族博物館があって
数年前に佐倉連隊についての展示がされていた。

01佐倉連隊にみる戦争の時代.jpg
A佐倉兵営之図01.jpg
B佐倉兵営之図02.jpg

その内容は次の通り:

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はじめに

国立歴史民俗博物館が建っている場所は佐倉城の遺跡であり
戦前は佐倉兵営が置かれていた所でもあります。

1873年 (明治6) 全国にさきがけ関東地方で施行された第一回徴兵で
集められた若者たちは翌年よりこの兵営で訓練を開始しました。

彼らが子や妻、親や兄弟、国を守るために
どのように兵営で訓練し、軍隊生活を送り、
そして防人として立ち向かっていったのか。

そんな立派な将兵たちに思いを馳せ
彼ら全ての将兵に心から感謝の誠を捧げたいものです。


防人を育てる


1 軍人勅諭

一、軍人は忠節を尽すを本分とすへし
一、軍人は礼儀を正しくすへし
一、軍人は武勇を尚(とうと)ふへし
一、軍人は信義を重んすへし
一、軍人は質素を旨とすへし

世界で最も礼儀正しく勇敢で規律正しい軍隊は軍人としての心得、
1882年(明治15) 明治天皇からの軍人勅諭をもって不動のものとなっていった。
全ての将兵たちは忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳目を暗記していった。

文字も読めず教育もない、道徳教育もまともな訓練もない匪賊同然の支那兵士、
足りなくなれば地方で誘拐した百姓などに鉄砲をもたせて最前線に送り込んでくる
連中とは雲泥の差がでることになる。


2 教育・訓練の日々

将兵たちは国防、国内外の自国民を守るための存在、防人であり
そのために必要な訓練・教育を受けることが日常だった。

整列や行進といった基礎的な動作、駆け足、体操などによる体力、運動能力の養成、
銃の取扱や射撃、銃剣術などを学習した。

戦場で、あるいは演習時に兵士が身に付けた軍装の全重量は30キロを超えることがあった。
日露戦争以来長く使われた38式歩兵銃は 4キロ近い。
体力なくして兵士はつとまらなかった。


3 上等兵・下士官・将校への道

初年兵は入営から4か月が経ち第一期を終了すると二等兵から一等兵に上がった。
一等兵の上は上等兵であり、成績の善し悪しで昇級が決まった。
上等兵になれたのは同年兵の三割程度であり(1940年時点)、除隊後には誇りとなった。


兵営の生活

1 内務班

兵舎は中隊毎に建てられていた。
兵士が寝食をともにし、銃の手入れ、座学などを行う場所は
内務班と呼ばれる大部屋であった。
一つの内務班は20人前後で、戦時に分隊(小隊の下)を編成する単位となった。
兵士にとって中隊長(大尉・中尉)は父、班長(軍曹・伍長)ら下士官は母とされ、
中隊は一つの家族とみなされた。
寝台を隣り合わせにした先輩兵士(古年兵)は戦友と称した。


2 息抜きのひととき-食事・入浴・酒保-

食事は一人当たりの分量、金額は厳密に決められていた。
兵士にはわずかながら給料が出た。 営内には酒保と呼ばれる売店があり
汁粉・あんパン・煙草・ビールなどの嗜好品を買うことができた。
入浴は毎日できたが、多人数が短時間で済ませなければならなかった。


1936(昭和11)1月9日 成田町から佐倉連隊へ赴く入営者の歓送記念写真:
C1936(昭和11)1月9日 成田町から佐倉連隊へ赴く入営者の歓送記念写真.jpg

1936(昭和11)1月9日 成田駅での入営者見送りの記念写真:
D1936(昭和11)1月9日 成田駅での入営者見送りの記念写真.jpg

1943年東京から佐倉に移転してきた近衛歩兵第5連隊:
E1943年東京から佐倉に移転してきた近衛歩兵第5連隊.jpg

1927(昭和2)歩兵第57連隊第3中隊第3内務班の面々:
F1927(昭和2)歩兵第57連隊第3中隊第3内務班の面々.jpg

1944(昭和19)5月18日 入隊記念の写真:
G1944(昭和19)5月18日 入隊記念の写真.jpg

内務班における各人の兵器・被服等の整理のし方を図示したものと
内務班のようす:
H内務班における各人の兵器・被服等の整理のし方を図示したもの2.jpg
I内務班のようす.jpg

1927(昭和2)炊事場における炊飯のようす:
J1927(昭和2)炊事場における炊飯のようす.jpg

内務班での食事のようす:
K内務班での食事のようす.jpg

酒保のようす:
L酒保のようす.jpg

佐倉連隊の出征風景・日清戦争:
M佐倉連隊の出征風景・日清戦争.jpg

戦没者の帰国:
N戦没者の帰国.jpg

1936年11月2日 佐倉に凱旋した歩兵第57連隊の戦死者遺骨:
O1936年11月2日 佐倉に凱旋した歩兵第57連隊の戦死者遺骨.jpg

日清戦争による戦死者の慰霊祭:
P日清戦争による戦死者の慰霊祭.jpg

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上記内容は、実際には国立歴史博物館が記した内容とは全然違う。

国立歴史民族博物館は 歴史を歪曲し偏向し あの手この手の表現で
旧日本軍や先人はおぞましかったと歪曲し/虚報表現をしている。
国民の脳幹に贖罪感を与えようとしているその姿勢は
朝日新聞ばりで 日本各地のサヨク平和施設と同類だ。

実際の国立歴史民族博物館の内容は 次のように歪曲偏向している:

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ごあいさつ

国立歴史民俗博物館が建っている場所は近世の佐倉城の遺跡であり
戦前佐倉兵営が置かれていた所でもあります。

1873年 (明治6) 全国にさきがけ関東地方で施行された第一回徴兵で集められた若者たちは
翌年よりこの兵営で訓練を開始しました。
彼らを編成してできた佐倉歩兵第2連隊は 東京の赤坂第1連隊、麻布第3連隊とならび
近代日本最初の歩兵連隊となり、1877年(明治10)の西南戦争への出兵に始まり
日清・日露の両戦争に出征し、1909年(明治42) 3月 水戸兵営に移駐しました。

代わって佐倉兵営に入った歩兵第57連隊は それまでの千葉・茨城両県からの徴集兵ではなく
千葉県下の若者のみが入隊する郷土部隊として 従来よりまして
千葉県民の生活と歴史にとって切っても切り離すことのできない存在となりました。

1936年(昭和11) 5月に連隊が満州孫呉へ移駐した後も この佐倉兵営は毎年同地に現役兵を送り続け、
また1937年(昭和12)には第一次歩兵第157連隊を、39年(昭和14)には歩兵第212連隊を、
さらに43年(昭和18)には第二次歩兵第157連隊を 中国の華中・華北の地に送り出しました。
そして歩兵第57連隊は 1944年(昭和19)のグアム・レイテ戦での悲劇を迎えます。

この歩兵第2連隊、第57連隊の歴史を徹底して実証的に見ていけば一部隊、一兵営にとどまらない
戦争の時代の歴史が予想される以上によく理解できるに違いありません。

今回の展示は、徴集された千葉県の若者の視点に立って
彼らがどのように徴兵検査を受け、どう兵営で訓練され、どんな軍隊生活を送り、
そしていかに戦ったかを 三か年の共同研究をふまえて展示したものです。

この展示が「国家のため」という大義のもと、
その生をまっとうすることなく異域で戦死した若者だちと
彼らを愛した父母と妻子たちの悲しみと困苦に思いをいたすとともに、
戦場となった地域の人々のはかり知れない苦しみを決して忘れることなく、
戦争の時代を冷静に見つめる機会となることを願っています。
-> 国家が国民に酷い仕打ちをした、と国民に意識付けさせようとしている。

二〇〇六年七月
国立歴史民俗博物館


兵士をつくるしくみ


1 軍人勅諭

普通の生活をしていた一般人を一人前の兵士に仕立て上げ、
組織や上官への絶対服従を強いるためには、
単なる知識・技術の習得とは連う精神上の柱となるものが必要だった。
-> 「仕立て上げ」と悪意ある表現で国家をけなそうとしている。
-> それに道徳を「精神上の柱」などと腐った言いまわしをしている。

1881年(明治14) 佐倉の歩兵第2連隊でも伍長が国会開設を訴え自殺する
といった事件があったが(真偽不詳)、明治前半期には自由民権運動の
軍隊内への波及を防ぐことも緊急の課題とされた。
-> “真偽不詳” を内容にするな、ボケ!
-> こいつは精神異常者の証言も記事にするような連中だ。

1882年(明治15) 天皇の名において公布された軍人勅諭は、
まさにそのために用意されたものであり兵士に徹底して教え込まれた。
前文には大元帥としての天皇が軍隊を統帥することがうたわれ、
後半では忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五徳目を説いた。
兵士はそれを一字一句の誤りなく暗記することが要求され、
日朝・日夕の点呼の際などには暗誦させられた。
-> 自由民権運動と軍人勅語がどう関係しているというのだ?
-> 意味不明な錯乱認識をしている。


2 教育・訓練の日々

兵士は戦争をするための存在であり、そのために必要な訓練・教育を受けることが日常の仕事だった。
-> 「戦争をするための存在」とは全く違う、国土と国民、国家を守るための存在だろうが!
-> こいつは民主党の仙石のように暴力装置と言いたいらしい。

歩兵は銃を手にした部隊であり、整列や行進といった基礎的な動作、駆け足・体操などによる
体力・運動能力の養成はもちろん、銃の取扱や射撃、銃剣術などを学習した。
戦場で、あるいは演習時に兵士が身に付けた軍装の全重量は三〇キロを超えることがあった。
日露戦争以来長く使われた38式歩兵銃は 4キロ近い。
体力なくして兵士はつとまらなかった。

歩兵第57連隊の1934(昭和9)年度の予定表によれば、
連隊銃剣術競技会、習志野野営、下志津野営、富士裾野演習、第二旅団連合演習、遊泳演習、
工兵との連合演習、連隊教練、秋季演習、特別人演習等々が並び、行事がない月はなく、
兵営の内外で威しい訓練が行われたことがわかる。
-> 行事がない月があったらそれは異常だろ。

3 上等兵・下士官・将校への道

初年兵は入営から4か月が経ち第一期検閲を終了すると二等兵から一等兵に上がった。
一等兵の上は上等兵であり、成績の善し悪しで昇級が決まった。
上等兵になれたのは同年兵の三割程度であり(1940年時点)、除隊後には誇りとなった。

上等兵までが兵(兵卒)であり1943年兵長が新設、その上は下士官(伍長、軍曹、曹長)である。
下士官には兵の中の希望者・適任者がなったが、軍隊生活に利点を見出した農家の次三男が多かった。
-> 「軍隊生活に利点」とは何かは書かず、まるで何か悪だくみがあるように匂わす内容になっている。

少尉以上の将校(士官)になるには、陸軍士官学校を卒業した職業軍人とは別に、
中学校卒業相当以上の高学歴者が一年志願兵(後幹部候補生)として短期で予備将校になる方法があった。
なお、明治初期を除き、下士官と将校の間には越え難い壁があったが、
1920年(大正9)には昇進可能となっている。
-> 「越え難い壁」はあんたら国営民族歴史博物館職員のボケぷりだ。


兵営の生活

1 内務班

兵舎は中隊毎に建てられていた。
その中の、兵士が寝食をともにし、銃の手入れ、座学などを行う場所は内務班と呼ばれる大部屋であった。一つの内務班は二〇人前後で、戦時に分隊(小隊の下)を編成する単位となった。
兵士にとって中隊長(大尉・中尉)は父、班長(軍曹・伍長)ら下士官は母とされ、
中隊は一つの家族とみなされた。

寝台を隣り合わせにした先輩兵士(古年兵)のことは「戦友」と称した。
しかし、内務班での生活は、個人の自由を許さず、規律・服従の強制を当然とし、
古年兵による初年兵への私的制裁、「員数合わせ」のための窃盗の横行など、
大きな不合理を舎んでいた。
-> 個人が自由にしてたら それも異常だろ。
-> 「大きな不条理」はあんたら国営の歴史民族博物館職員だ。

池田植外著『苦?楽?新兵の生活』(1915年刊)は、佐倉連隊での体験記であり、
古年兵の横暴や体罰、軍隊組織の矛盾について正直に語っている。
-> そして国営歴史民族博物館職員は不正直だ。


2 息抜きのひととき-食事・入浴・酒保-

青年にとって食べることは楽しみであり、また厳しい軍隊生活を続けるためにも重要だった。
しかし、前掲、大正初年佐倉連隊に入営した池田極外は、
「軍隊の飯は、飯らしい香味(あじ)かない」と、不味かったと言っている
(時期や地域、個人による違いあり)。
一人当たりの分量、金額は厳密に決められていた。
-> 喰わずともあんたら公僕たる職員は腐っているとわかる。
-> 「(時期や地域、個人による違いあり)」とわざわざ書くのは やましさ の現れか。


兵士にはわずかながら給料が出た。 営内には酒保と呼ばれる売店があり
汁粉・あんパン・煙草・ビールなどの嗜好品を買うことができた。
佐倉連隊の「連隊内務規定」(1934年)によれば、日用品は午前11時から、
飲食品は夕食後から、いずれも日夕点呼30分前(午後7時半か8時)まで販売していた。

入浴は毎日できたが、多人数が短時間で済ませなければならなかった。
兵営にいる限り、食事も風呂も、そして睡眠すら心休まるものではなかった。
-> 「心休まるものではなかった」ってあんたら公僕は その兵舎にいたんかい?


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