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香港での激戦 [近代史+ (中国)]

九龍から南へ香港島を眺める。
高層ビル群の広告に中国企業 TCLやHiar、China Mobile、
韓国はLGや Samsungが見え欧州はオランダ企業Philipsも見える。
相変わらず日系企業もがんばっている、Sharp、Toshiba、Panasonic…

かつて日本軍はこの海峡渡って香港島に敵前上陸した。
そしてここから日本軍がキャメロン山に建てた忠霊塔が見えた。
九龍から香港島.jpg

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昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は北から英国領へ進撃を開始した。
歩兵228連隊(名古屋)、229連隊(豊橋)、230連隊(静岡)。

草木が切り払われた禿山に鉄条網と30もあるトーチカ
(分厚いコンクリートの天井と壁に射撃するためだけの穴があいた要塞)
を 夜襲と突撃で たった2日で撃破し九龍、香港市街が見渡せる341高地を占拠した。

啓徳飛行場(旧空港)へは 97式戦闘機が低空銃撃で全英軍14機を壊滅。
悪魔山(旧空港から東)へは98式軽爆撃機が急降下爆撃で英軍9.2インチ要塞砲8門の大半を大破、
九龍から海峡を渡って香港へ上陸するまえに。

香港地図1.jpg

人種差別が激しい英軍は日本人を下等で貧弱な人種で簡単に叩き潰せるとなめていた。
近眼で航空機をまともに飛ばせず、夜間攻撃もできず、
砲兵隊も自前で動かせる資質がない、と。

香港島に孤立した英軍(と応援のオーストラリア軍)に二度の降伏勧告をするも彼らは拒否してきた。
そしてその香港島で激戦が始まる。
香港島に敵前上陸した日本軍主力は山岳地帯から南下、英軍13,000主力と交戦。

島の中央の黄泥涌五差路での激戦ではローソン准将の部隊は突撃し玉砕した
…日本軍のような勇敢な勇者もいた…歩兵230連隊(静岡)の死傷者は600。
しかし後に連隊長 東海林大佐は この勇敢な敵将に敬意し 立派な墓標を立て手厚く葬っている。
五差路のすぐ西のニコルソン山でも激戦になり日英両軍の戦死者の大半がこの地であった。

日本軍は黄泥涌五差路を更に南下し南の海に面するレパルス・ベイに達する。
英軍はレパルス・ベイ近くのホテルとその周辺の陣地で頑強に抵抗し激戦は続いた。
しかしホテルは婦女子の避難場所で一般宿泊客含め約300人の非戦闘員がいる。
それを知っていた連隊長 田中大佐はホテルへの砲撃を最後まで許可しなかった。
(後に米軍は日本のほぼ全都市で老人、子供、婦女子らを焼夷弾で皆殺しにしていった。)
しかし東西に分断された英軍は 戦意喪失し無条件降伏をすることになる。

香港島地図2s.jpg
(*1)

日本軍 歩兵約 9,000、しかし砲兵部隊、航空隊、後方支援部隊、海軍を含め40,000以上。
英軍 13,000。
日本軍が勝って当然の結果だった。

日本軍戦死者 683。
英軍戦死者 約1,500、捕虜 10,947。

日本軍は香港島を占領後、キャメロン山(金馬倫山=439m)に忠霊塔
(セメント900トンで高さ80メートル、104万円(現5-10億円相当)を建てた。
しかし今はもうない、日本の敗戦後に戻ってきた英軍がぶっ壊した。

いま香港島の東部、紫港に立派な英軍墓地がある。
慰霊碑には「勇者の名は永遠に」。

日本には靖国神社がある。
護国勇者たちが今もなお日本を守っている。

(参考:「戦跡を歩く」牧野弘道(著) 集英社
*1: 下の地図は この書籍からのもの)

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