児玉源太郎 と 誇り [坂の上の雲]
国の危機に 国を守り戦うためには降格されることを受け入れた児玉源太郎。
陸軍大将になりえたのが参謀次長になった。
大企業の副社長になりえたのが営業次長になったようなものだろうか。
現場で指揮し戦った。
たとえ世間が無関心だったとしても
国の為に降格を受け入れ戦っていたに違いない。
しかし当時の日本人は誰もが 児玉源太郎の偉大さを知っていた。
大切なものが何であるかを、真実をよく知っていた。
だから
「誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。
それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。
よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。」
それに 当時の日本人は誰もが国のために命を懸けで戦った、
誇りが何であるか、大切なものが何であるかを、真実をよく知っていた。
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児玉神社
http://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-10-19
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http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091112/acd0911120725005-n1.htm
【幕末から学ぶ現在(いま)】(36)東大教授・山内昌之 児玉源太郎
2009.11.12 07:23
(児玉源太郎)
■政略の総合プロデューサー
◆望んで降格受け入れ
昇進すごろくを生きがいにする政治家や役人にとって、降格や降任などは想像もできない人事であろう。しかし、幕末明治以来の日本政治史で望んで降格人事を受け入れた稀有(けう)の例がある。それも陸軍の歴史の中にあった。
驚きは、大山巌(いわお)参謀総長を次長として補佐した田村怡与造(いよぞう)が日露戦を控えて急死する突発事件の後に起きた。これが有名な児玉源太郎の降格人事にほかならない。
内務大臣と台湾総督の職にあり、陸軍大将への昇進を控えた児玉にとって、参謀次長は各省の次官か局長くらいのポストであり、はるかに格下であった。しかし、川上操六(そうろく)や田村といった優秀な作戦家を相次いで亡くした陸軍で対露戦を仕切れるのは児玉以外にいなかった。ここで大臣や総督といった栄職を捨て、国家の危機に当たろう、と自然に決意したのが児玉の偉さなのである。
誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。
現代の政治家でも官房長官や大臣だった人で副長官や副大臣になった人もいる。民主党新政権で大臣になってもおかしくない人で副大臣や政務官になった人がいるかもしれない。こういう人は、児玉と自分の才を虚心に比べてみることだ。すると、国と国民のために働ける大事さやありがたみが改めて分かってくるだろう。
◆政治のバランス熟知
児玉は、奉天会戦で日露戦争を終わらせた立役者であるだけでなく、ぎりぎりの決断で戦に踏み切りながら、落としどころのタイミングをわきまえていた政治家である。政治に必要な理想・信念とリアリズムのバランスを彼ほど知っていた明治の軍人政治家もいない。児玉のバランス感覚は長州人といっても支藩の徳山藩の出身であり、軍隊でも乃木希典のように少佐からでなく、藩閥外の武士と同じく下士官から出発する苦労を重ねた点と無縁ではない。軍人の能力は試験の成績でなく、天性の資質に負う点が多い。
五稜郭戦争でも敵の夜襲などに冷静沈着に対応し、熊本で神風連(しんぷうれん)の乱が起きて、鎮台司令官や参謀長らが殺されても落ち着いて指揮をとっただけでない。西南戦争でも熊本城で参謀副長として、西郷軍の猛攻をしのいだあたりは、後年の日露戦争の満州軍総参謀長の才を彷彿(ほうふつ)させる。
陸軍大学校の創設と参謀教育にあたったドイツのメッケルも児玉の天才ぶりを評価し、「コダマ将軍がいる限り日露戦争で日本は負けない」と語ったほどだ。
◆人情家で友人思い
合理主義者児玉には、別の側面もある。それは人情家であり、友誼(ゆうぎ)にも篤(あつ)いことであった。旅順攻略に乃木将軍がてこずっているとき、友人の児玉が出かけて指揮権を一時的に委譲させ、二〇三高地を落とした話は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』で美しく描かれた。この友情物語の厳密な真偽はおくにしても、児玉は旅順戦での手柄を一言も吹聴せず、すべてを乃木の功績に帰したのは事実である。
児玉が死んだとき、篠つく雨のなか、柩(ひつぎ)に連れ添う乃木の姿が目立ったのは偶然でない。これは、つい100年ほど前の日本にあった光景である。児玉は日露戦争が終わって1年後、わずか55歳の若さで急死した。児玉は50代で国運を賭けた日露戦争の政略と作戦を演出した総合プロデューサーだったのである。
児玉だけでなく、川上といい田村といい、何という若さで亡くなったのだろう。国が滅ぶかもしれない心労で命を縮めた児玉らは、その年齢を越える現在の指導者の姿をいま見るなら何と言うのだろうか。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】児玉源太郎
こだま・げんたろう 幕末の武士、明治の陸軍軍人。嘉永5(1852)年、周防(山口県)徳山藩生まれ。17歳で戊辰戦争に参加。維新後兵学寮を卒業し、佐賀の乱、神風連の乱で軍功を認められる。西南戦争では熊本鎮台参謀副長として政府軍の勝利に大きく貢献。明治20年に陸軍大学校の初代校長となり、軍隊の近代化を推進する。陸軍次官、台湾総督、陸相、内相、文相などを歴任し、日露戦争では満州軍総参謀長を務め、卓越した手腕を発揮する。同39(1906)年に参謀総長となるが、ほどなく死去。享年55。
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陸軍大将になりえたのが参謀次長になった。
大企業の副社長になりえたのが営業次長になったようなものだろうか。
現場で指揮し戦った。
たとえ世間が無関心だったとしても
国の為に降格を受け入れ戦っていたに違いない。
しかし当時の日本人は誰もが 児玉源太郎の偉大さを知っていた。
大切なものが何であるかを、真実をよく知っていた。
だから
「誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。
それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。
よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。」
それに 当時の日本人は誰もが国のために命を懸けで戦った、
誇りが何であるか、大切なものが何であるかを、真実をよく知っていた。
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児玉神社
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【幕末から学ぶ現在(いま)】(36)東大教授・山内昌之 児玉源太郎
2009.11.12 07:23
(児玉源太郎)
■政略の総合プロデューサー
◆望んで降格受け入れ
昇進すごろくを生きがいにする政治家や役人にとって、降格や降任などは想像もできない人事であろう。しかし、幕末明治以来の日本政治史で望んで降格人事を受け入れた稀有(けう)の例がある。それも陸軍の歴史の中にあった。
驚きは、大山巌(いわお)参謀総長を次長として補佐した田村怡与造(いよぞう)が日露戦を控えて急死する突発事件の後に起きた。これが有名な児玉源太郎の降格人事にほかならない。
内務大臣と台湾総督の職にあり、陸軍大将への昇進を控えた児玉にとって、参謀次長は各省の次官か局長くらいのポストであり、はるかに格下であった。しかし、川上操六(そうろく)や田村といった優秀な作戦家を相次いで亡くした陸軍で対露戦を仕切れるのは児玉以外にいなかった。ここで大臣や総督といった栄職を捨て、国家の危機に当たろう、と自然に決意したのが児玉の偉さなのである。
誰も児玉に能力がないから降格されたとは思わない。それどころか参謀次長というのは、それほど重要ポストなのかと世人に認識させたのだ。よく地位が人をつくるというが、人が地位をつくり直すということもあるのだ。
現代の政治家でも官房長官や大臣だった人で副長官や副大臣になった人もいる。民主党新政権で大臣になってもおかしくない人で副大臣や政務官になった人がいるかもしれない。こういう人は、児玉と自分の才を虚心に比べてみることだ。すると、国と国民のために働ける大事さやありがたみが改めて分かってくるだろう。
◆政治のバランス熟知
児玉は、奉天会戦で日露戦争を終わらせた立役者であるだけでなく、ぎりぎりの決断で戦に踏み切りながら、落としどころのタイミングをわきまえていた政治家である。政治に必要な理想・信念とリアリズムのバランスを彼ほど知っていた明治の軍人政治家もいない。児玉のバランス感覚は長州人といっても支藩の徳山藩の出身であり、軍隊でも乃木希典のように少佐からでなく、藩閥外の武士と同じく下士官から出発する苦労を重ねた点と無縁ではない。軍人の能力は試験の成績でなく、天性の資質に負う点が多い。
五稜郭戦争でも敵の夜襲などに冷静沈着に対応し、熊本で神風連(しんぷうれん)の乱が起きて、鎮台司令官や参謀長らが殺されても落ち着いて指揮をとっただけでない。西南戦争でも熊本城で参謀副長として、西郷軍の猛攻をしのいだあたりは、後年の日露戦争の満州軍総参謀長の才を彷彿(ほうふつ)させる。
陸軍大学校の創設と参謀教育にあたったドイツのメッケルも児玉の天才ぶりを評価し、「コダマ将軍がいる限り日露戦争で日本は負けない」と語ったほどだ。
◆人情家で友人思い
合理主義者児玉には、別の側面もある。それは人情家であり、友誼(ゆうぎ)にも篤(あつ)いことであった。旅順攻略に乃木将軍がてこずっているとき、友人の児玉が出かけて指揮権を一時的に委譲させ、二〇三高地を落とした話は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』で美しく描かれた。この友情物語の厳密な真偽はおくにしても、児玉は旅順戦での手柄を一言も吹聴せず、すべてを乃木の功績に帰したのは事実である。
児玉が死んだとき、篠つく雨のなか、柩(ひつぎ)に連れ添う乃木の姿が目立ったのは偶然でない。これは、つい100年ほど前の日本にあった光景である。児玉は日露戦争が終わって1年後、わずか55歳の若さで急死した。児玉は50代で国運を賭けた日露戦争の政略と作戦を演出した総合プロデューサーだったのである。
児玉だけでなく、川上といい田村といい、何という若さで亡くなったのだろう。国が滅ぶかもしれない心労で命を縮めた児玉らは、その年齢を越える現在の指導者の姿をいま見るなら何と言うのだろうか。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】児玉源太郎
こだま・げんたろう 幕末の武士、明治の陸軍軍人。嘉永5(1852)年、周防(山口県)徳山藩生まれ。17歳で戊辰戦争に参加。維新後兵学寮を卒業し、佐賀の乱、神風連の乱で軍功を認められる。西南戦争では熊本鎮台参謀副長として政府軍の勝利に大きく貢献。明治20年に陸軍大学校の初代校長となり、軍隊の近代化を推進する。陸軍次官、台湾総督、陸相、内相、文相などを歴任し、日露戦争では満州軍総参謀長を務め、卓越した手腕を発揮する。同39(1906)年に参謀総長となるが、ほどなく死去。享年55。
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