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国際情勢 [がんばれ産経新聞]

ペリーの砲艦外交で開国した江戸幕府、今の日本政府と同様に平和ボケしていた。
海外情勢を把握していたのは九州の国士たち。
1862年 高杉晋作は海外情報入手に上海へ向かった:

「外国船は三百から四百隻、そのほかに軍艦十数隻という。
 支那人は外国人の使用人となっている。憐(あわ)れむべし。
 わが国もこうならざるをえないのか。
 国防の成就を祈るばかりである

満州民族の国家、清の影響で弁髪だらけの上海の民が
白人にこき使われ奴隷化されていたのを見たのだろう。
(弁髪:後頭部の一部を残して剃り上げ、残りの毛髪を長く伸ばし編んだ髪型)

実際には高杉晋作だけじゃない、多くの国士が海外の状況に接した。
それは強烈な印象と体験であり震えるほどに危機感を抱いたのかもしれない。
国士たちは立ち上がった。

世界情勢を把握し国を護るために立ち上がった九州の国士たち。
今のように私利私欲に走る役人・官僚はいなかった、そんな連中は公務員じゃない。
屈強な武士たちがいたんだ、彼らこそが公に尽くす国士たち、
国防のために明治維新を成し遂げることになる。

今の小沢一郎が牛耳る民主党鳩山政権は今の世界情勢を把握しているのだろうか?
してるとは思えない。 国を守るどころか売ろうとしている。

現代の維新=草莽崛起(そうもうくっき)、
参加者を増やさなければならない。
---
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/091028/acd0910280319001-n1.htm

【次代への名言】高杉晋作と松陰編(3)
2009.10.28 03:19

「翼あらば千里の外も飛(とび)めぐり よろづの国を見んとしぞおもふ」(高杉晋作)

 「某(それがし)の心中の喜悦思うべし」。1861年9月(旧暦)、長州藩の上層部から「外国へつかわす」との内示を受けたときの心境を晋作はそう日記につづっている。冒頭の和歌にもあるように世界を見聞するのは晋作の宿願だった。出発は翌年春。向かうは国際都市・上海だった。

 「外国船は三百から四百隻、そのほかに軍艦十数隻という。支那人は外国人の使用人となっている。憐(あわ)れむべし。わが国もこうならざるをえないのか。国防の成就を祈るばかりである

 到着直後の感慨である。晋作はそれから2カ月近く滞在したが、この第一印象と国防への思いは、目のあたりにした亡国のありさまに一層強まったようだ。だから、「何はともあれ海軍」ということで帰国途中に立ち寄った長崎で「独断で蒸気船一隻を注文いたしました」と長州藩の先輩、桂小五郎に報告している。

 だが、どうも帰国後の晋作は自分をもてあましていたようだ。英国公使館を焼き討ちにしたかと思うと、10年先に備える、と言って藩からの登用を断って頭を丸め、「東行(とうぎょう)」と称した。≪坊主頭(ぼうずあたま)をたたいてみれば 安い西瓜(すいか)の音がする≫とは当時の晋作のざれ歌である。(文化部編集委員 関厚夫)
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元気

こんばんは。

≪坊主頭(ぼうずあたま)をたたいてみれば 安い西瓜(すいか)の音がする≫

幕末だと、
≪太平の眠りを覚ます蒸気船。 たった四杯で夜も眠れず≫
が有名ですが、蒸気船を上喜撰(宇治の高級茶?)とかけているそうです。
私が小学校(?)で習ったときは、上喜撰(宇治の高級茶)とは習わなかった気がするのですが… 
ま、その時に来航した蒸気船は2隻だけだったらしいですし、教わる歴史は変わるのです。(笑)

さて、ペリーで検索すると、「青い鳥文庫」 というのが出て来ます。
http://shop.kodansha.jp/bc/aoitori/park/02time/time5.html

こちらにも日教組の影響が出ているようです。
ペリーやアメリカを持ち上げてます。幕末の志士の活躍を絡めません。
こうやって日本のヘタレぶりを教えていくのでしょうか。
子らには、ペリーの先見性を説くより、日本の技術の素晴らしさを説くべきです。
当然、大東亜戦争の降伏文書の調印時。ミズーリ号にペリー艦隊の150年前の星条旗が掲揚されたこと。「青い鳥文庫」には、書かないですよね。(笑)

以前、靖国神社の就遊館で、パネルで学習する幕末志士のコーナーを拝見しました。
そこでは、海岸線の測量を申し出た際、既に日本には地図があると断ったとありました。
地図の出来ばえから、日本の技術の素晴らしさ(伊能忠敬の地図です)に驚いたとありました。
日本は侮れないと。

最後に、的確な記事を見つけましたので転記しておきます。
日本人には、こういう歴史に対する視点(教育)こそが必要だと思います。

「ぺりー来航150周年と日米関係について思うこと 」
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/personal4.htm
1846年、ペリー来航のわずか7年前に米国はメキシコからカリフォルニアを奪い、そこから太平洋を横断してシナと結ぶ新しい貿易航路が開かれた。当時新たに発明された蒸気船では、日本で石炭の積み込む必要があった。さらに太平洋における捕鯨業が発達し、日本の港湾を使いう必要が出てきたこと。米国の要求はこのような平和的なものであったが、米国の領土拡大政策であるManifest Destinyマニフェストデステニーの哲学そのもので、実際にペリーは、浦賀に姿を現す前に、那覇港に侵入して、琉球政府に対し対江戸幕府と同様の強硬な要求を行い、強引に王宮に押し入ることまでしている。
 交渉にあたって、ペリーは日本側に「日本も鎖国の国法をたてに防戦するがよい。戦争になれば、勝つのは必ず我等である。日本は敗けるので、そのときに降伏を乞いたければ、このたび贈っておいた「白旗」を押立てるがよろしい。そうしたら、アメリカは砲撃をやめ、軍艦を退かせて、「和睦」することにしよう。」といった調子で、砲艦外交そのものであり、「日本政府に恩恵として希願するのではなく、権利として要求する」というペリーの方針は、要求が聞き入れられなければ武力で決着をつける、という欧米諸国の弱肉強食のルールに則ったものであった。

  ペリーが翌年1月25日、第2回の来航を前に海軍長官あてに送った手紙の一節には、「日本政府が協議を拒否し、もしくは我が商船、捕鯨船のため港湾を割り当てることを承知しない場合は、米国市民に与えた侮辱と損害との報償として、予は日本帝国の属領である琉球を、米国国旗の監視の下におく。」という意見をしている。
、さらに10月には母島群島占領のため軍艦プリマス号を派遣した。プリマス号のケリー艦長は台風シーズンの過ぎた10月下旬、小笠原諸島の母島に上陸し、以下のような宣言文(「ペリー宣言」とも呼ばれる)を掲げた。
This Southern group of Islands has been explored & taken Possession of by commander John Kelly & officers of the U.S.SHIP Plymouth under orders from commodore M.C.Perry on BEHAL of THE U.S.of N.A. This 30 Day OctoBer 1853.

  しかし翌年、日米和親条約締結により米国船は日本本土で補給を受けられるようになったため、小笠原を基地化する必要性は薄れ、貯炭場設置計画も中止となった。
 一方、同じ頃イギリス政府も小笠原の領有権を主張し、日本来航の帰途、香港に寄港したペリーに対し、小笠原群島は日本より先にイギリスが領有しているとの見解を伝えた。ペリーは1853年12月、これを批判する書簡をもって回答し、また小笠原の港湾は1国のみでなく、各国に対する避難所・休養所として開港されるべきと主張した。
 アメリカ・イギリスがお互いに牽制しあったことから、小笠原は欧米の植民地にされることから免れた。その後もいくつかの紆余曲折を経て、明治9年(1876)、小笠原は正式に日本領となり、各国もこれを承認した。この時代はまだまだ大航海時代にスペインやポルトガルが南米大陸をつぎつぎに植民地化していたのと同様に、今では考えられないことですが、発見すなわち所有(領土占領)を意味することがあたりまえの時代でした。



by 元気 (2009-11-03 23:12) 

genn

すてぃっちさん、

御越しいただきありがとうございます。

by genn (2009-11-05 19:23) 

genn

元気さん、

「青い鳥の文庫」のサイトを見ました。
ペリーを褒めて日本を見下した内容ですね。
"凛とした日本にやってきた傲慢な侵略者ペリー"
と紹介しなければいけません。

「ぺりー来航150周年と日米関係について思うこと 」
のサイトでは ペリーの傲慢さが正しく記されてますね。

ところで横須賀の久里浜には
ペリー公園があって
ペリー記念館があって
じょおきせんの碑があります。
数年前たまたまバイクで走ってたら見つけました。
武士が嫌いだった伊藤博文の筆で
「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」とあります。
毎年7月第2土曜日は ペリー祭 があって
ペリー公園前久里浜海岸では花火大会があるそうです。

http://www.kurihama.net/perry.htm

やれやれ・・・
そんな記念館には せめて しっかりと
"傲慢な侵略者ペリー" の説明案内をするべきなんですけどね。

・・・あるいは こうなったらペリーを笑い飛ばしましょう:
 ペリーのお願い
 http://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-06-07

by genn (2009-11-05 19:25) 

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