北方領土: 占守島の戦い [北方領土]
邪悪で強欲な匪賊が北から武力進攻してきた。
よくみたらソ連(ロシア)人たちだった。
しかし やってることは匪賊そのものだ。
満州や樺太で日本人は虐殺され、凌辱され、拉致され、金目の物は全て剥がされた。
文字なんて読めない残忍な大男たちだ、こいつらは人間じゃない、
ほとんど生理的に強欲に動き襲ってくる。
いま現在進行中の中共によるウイグル人への虐殺を大規模に、
しかも邪悪さレベルを最悪に振り切った状況だと思えばいい。
樺太だけじゃない、このままだと千島列島、それに北海道も略奪されることになる。
占守島(しゅむしゅとう)で反撃が始まる。
---
どうやって北方領土が略奪されていったのか?
覚えておくべきだ。
---
1905年9月5日:
ポーツマス条約で日本の北方領土は決まっていた、
全ての千島列島と南樺太、樺太の下半分は日本の領土だった。
1945年8月9日:
日ソ中立条約があったがソ連は日本に宣戦を布告しやがった。
日本がアメリカに降伏するのは もう間近だと知りながら。
ありえない。これほどの腐った蛮行はない。
火事場泥棒。最低最悪非道なことだ。
日本人は地獄をみることになる。
1945年8月15日:
日本敗戦。
玉音放送にて日本軍は矛を収めた。
千島列島の最北端、占守島でも武装解除の動きがはじまり、
完全停戦予定は8月18日16:00。
1945年8月18日:
早朝の占守島の北の海岸いに国籍不明の200の船団2万の軍隊が
怒涛の勢いで接近、上陸し攻撃してくる。
驚いた日本軍は反撃を開始するも圧倒的な人数に海沿いの日本軍は包囲され玉砕していく。
占守島の日本軍は知らなかった、敵はソ連軍だった。
解体途中の戦車を特急で再組立、再整備するも用意できたのは先ずは20輌、
北の海岸へ向けて爆走、特攻していくが18輌大破。
しかし追って別部隊戦車40輌、島南部からは7機の戦闘機が出撃、敵へ大打撃を与える。
日本の軍隊は規律厳しく正しく訓練されている、それに士気が高かった。
誰もが命をかけて己の国を守る国士たちだった。
匪賊のようなソ連軍とは違う。
その間、缶詰工場で働いていた20歳前後の女性約400名を北海道へ脱出させる。
(のちに、ソ連人は 女を出せ! とののしり女を捜しまわることになる。)
やがて当初の停戦予定時刻16:00を前に日本軍は停戦交渉を開始。
しかし交渉になるまでに日本交渉人側に死傷者が続出。
やがて交渉になるも 負けてる相手が降伏勧告をしてくる。
日本軍戦死者 約300人代に対して
ソ連軍戦死者 約7000人。
ただし札幌からの命令は停戦。
武装解除され男たちはみなシベリアへ拉致されていった。
シベリアへ拉致された日本人は60万人とも200万人ともいわれ、
悲惨な生活と強制労働での死者は 6万人とも 40万人ともいわれる。
続いてソ連は占守島の先へ、残りの千島列島も次々と占領していく。
択捉島、国後島、色丹島 それに 歯舞群島も略奪していく。
それに目指すは北海道北部だ。
ところが、北海道には既にアメリカ軍が進出していた。
もうソ連軍は手も足も出せない。
占守島の戦いで国士たちがソ連軍を 1週間も足止めにしてなかったら、
ソ連は北海道北部を略奪していた。
1951年9月8日:
サンフランシスコ平和条約で
日本は樺太と千島列島を放棄させられた、
ただし択捉島、国後島、色丹島 及び歯舞群島を除いて。
これらは今だって日本の領土だ。
(以上参照:靖国神社「遊就館」からの資料・「挑戦的平和論下巻」小林よしのり(著) 幻冬舎)
(地図は Googleより:)
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しかし やってることは匪賊そのものだ。
満州や樺太で日本人は虐殺され、凌辱され、拉致され、金目の物は全て剥がされた。
文字なんて読めない残忍な大男たちだ、こいつらは人間じゃない、
ほとんど生理的に強欲に動き襲ってくる。
いま現在進行中の中共によるウイグル人への虐殺を大規模に、
しかも邪悪さレベルを最悪に振り切った状況だと思えばいい。
樺太だけじゃない、このままだと千島列島、それに北海道も略奪されることになる。
占守島(しゅむしゅとう)で反撃が始まる。
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どうやって北方領土が略奪されていったのか?
覚えておくべきだ。
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1905年9月5日:
ポーツマス条約で日本の北方領土は決まっていた、
全ての千島列島と南樺太、樺太の下半分は日本の領土だった。
1945年8月9日:
日ソ中立条約があったがソ連は日本に宣戦を布告しやがった。
日本がアメリカに降伏するのは もう間近だと知りながら。
ありえない。これほどの腐った蛮行はない。
火事場泥棒。最低最悪非道なことだ。
日本人は地獄をみることになる。
1945年8月15日:
日本敗戦。
玉音放送にて日本軍は矛を収めた。
千島列島の最北端、占守島でも武装解除の動きがはじまり、
完全停戦予定は8月18日16:00。
1945年8月18日:
早朝の占守島の北の海岸いに国籍不明の200の船団2万の軍隊が
怒涛の勢いで接近、上陸し攻撃してくる。
驚いた日本軍は反撃を開始するも圧倒的な人数に海沿いの日本軍は包囲され玉砕していく。
占守島の日本軍は知らなかった、敵はソ連軍だった。
解体途中の戦車を特急で再組立、再整備するも用意できたのは先ずは20輌、
北の海岸へ向けて爆走、特攻していくが18輌大破。
しかし追って別部隊戦車40輌、島南部からは7機の戦闘機が出撃、敵へ大打撃を与える。
日本の軍隊は規律厳しく正しく訓練されている、それに士気が高かった。
誰もが命をかけて己の国を守る国士たちだった。
匪賊のようなソ連軍とは違う。
その間、缶詰工場で働いていた20歳前後の女性約400名を北海道へ脱出させる。
(のちに、ソ連人は 女を出せ! とののしり女を捜しまわることになる。)
やがて当初の停戦予定時刻16:00を前に日本軍は停戦交渉を開始。
しかし交渉になるまでに日本交渉人側に死傷者が続出。
やがて交渉になるも 負けてる相手が降伏勧告をしてくる。
日本軍戦死者 約300人代に対して
ソ連軍戦死者 約7000人。
ただし札幌からの命令は停戦。
武装解除され男たちはみなシベリアへ拉致されていった。
シベリアへ拉致された日本人は60万人とも200万人ともいわれ、
悲惨な生活と強制労働での死者は 6万人とも 40万人ともいわれる。
続いてソ連は占守島の先へ、残りの千島列島も次々と占領していく。
択捉島、国後島、色丹島 それに 歯舞群島も略奪していく。
それに目指すは北海道北部だ。
ところが、北海道には既にアメリカ軍が進出していた。
もうソ連軍は手も足も出せない。
占守島の戦いで国士たちがソ連軍を 1週間も足止めにしてなかったら、
ソ連は北海道北部を略奪していた。
1951年9月8日:
サンフランシスコ平和条約で
日本は樺太と千島列島を放棄させられた、
ただし択捉島、国後島、色丹島 及び歯舞群島を除いて。
これらは今だって日本の領土だ。
(以上参照:靖国神社「遊就館」からの資料・「挑戦的平和論下巻」小林よしのり(著) 幻冬舎)
(地図は Googleより:)
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