日本精神が台湾に遺したもの [近代史+ (台湾)]
先週は京都に続き台湾へも出張になった。
長旅でいいことには本が読める。
で、「世界を愛した日本」西村幸祐 責任編集 オークラ出版に台湾の記事、
蔡焜燦(「台湾と日本精神」(小学館)の著者)の記事を読んだ。
すばらしい。
その一部:
---
蔡焜燦氏、大いに語る
日本精神(リップンチェンシン)が台湾に遺したもの
日本になった台湾島:
台湾が日本の領土になったのは明治28年(1895年)でした。
…
90パーセントを超えた就学率:
ここに今から74年前の昭和10年頃に台湾の清水公学校で使われていた
テキストの複製があります。これを見ると、本当にこれが植民地の学校
だったのだろうか、と思います。
…
日本は台湾を50年間統治しましたが、
1945年の時点で、台湾の子供達の就学率は90%を超えていました。
一方、オランダが統治したインドネシアは 1945年の時点で就学率はわずか3%です。
それが植民地というものです。
…
台湾には名古屋や大阪などよりも先に帝国大学が創られました。
台北帝国大学です。
日本は外地(台湾)も内地(日本)も分け隔てなく接していました。
台北帝国大学の存在が、その証拠です。
日本人の先生の「奪い合い」:
我々の世代は今でもよく昔を思い出して話をしますが、
内地<日本>から来たどの先生方も、台湾人の子供達を自分の子供のようにかわいがってくれ、
まるで自分の子供みたいに接してくれました。
戦後、日本と台湾が自由に行き来できるようになったとき、
ひとつのブームになったのが戦前の先生の奪い合いです。
<台湾から内地(日本)人48.8万人が日本列島に追われ、代わって中国大陸から蒋介石軍20万人がくると
虐殺テロがはじまり戒厳令がひかれ、長期にわたって鎖国状態が続いた。>
台湾に赴任した先生も、先生が東京から千葉、千葉から埼玉と転勤するように、
台湾でも台北から台南そして台中と各地を転々としました。
そのため一人の先生にたくさんの台湾人の教え子がいるので、
一度かつての日本人の先生が台湾に来るとなると、奪い合いが始まるのです。
一度先生と再会すると、先生を懐かしがって、話をするだけでなく、
帰り際に小型トラックに一杯、お土産を差し上げたりしました。
その先生は当時既に90歳近かったのですが、その先生がぽろぽろと泣いていて、
私たちも目を真っ赤にしていたのを覚えています。
あのときの先生の顔、私は忘れることができません。
日本人の先生方は本当に一生懸命勉強を教えてくれた。
本当の親のように接してくれた。
日本が戦争に負けて、しばらく会うことができませんでしたが、
やっと会えたときの感動は、言葉にすることができませんでした。
台湾で神になった日本人:
台湾には、日本人を神様として祀っているところがあります。
…
台湾に骨を埋めた明石元次郎:
…
その時彼は「死んだら骨を台湾に埋めてほしい」と遺言したと言います。
そして、遺骨は台湾に葬られました。
そして、立派な神社が建てられたのですが、陸軍元帥上原勇作は
「皇族以外でこれだけ立派なお墓が立てられたのは明石だけだ」
と言ったといいます。
しかし、戦後国民党<蒋介石>は墓を暴き、墓石を倒し、その跡地にバラックを建てました。
明石神社の脇には公衆便所を作って、鳥居はバラックの柱にしていたのです。
…
ところが台北市長だった陳水扁は金銭を払って退去命令を出して…
そして、明石閣下の墓は場所を台北三芝郷のキリスト教墓地に移し、今も台湾の地に
永久に眠っておられます。
…
蒋介石の国民党は台湾にやってきて大事に祀っていたお墓を暴き、蹂躙しました。
他にも汪兆銘は日本の敗戦後に墓が掘り返され、遺体は揚子江に投げ込まれ、
墓穴を二回も爆破させています。
一方、日本の歴史の中で、死んだ人の墓を暴いたという歴史ありません。
死者に対して鞭打つことはしません。
ところがシナ人<中国人>は平気でそういうことをします。
…
---
かつての、日本人たち、つまり今で言う日本人と台湾人(本省人)たちの
絆の深さには感動するものがある。
しかし台湾は蒋介石が連れてきた大陸中国人の末裔、外省人たちがいる。
それに日本には反日NHKがいる。
日本と台湾の絆が破壊されつつある。
参考:
NHKスペシャル Japanデビュー
http://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-04-08
NHKを正す必要がある。
「世界を愛した日本」西村幸祐 責任編集 オークラ出版:
BLOG RANKING:
長旅でいいことには本が読める。
で、「世界を愛した日本」西村幸祐 責任編集 オークラ出版に台湾の記事、
蔡焜燦(「台湾と日本精神」(小学館)の著者)の記事を読んだ。
すばらしい。
その一部:
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蔡焜燦氏、大いに語る
日本精神(リップンチェンシン)が台湾に遺したもの
日本になった台湾島:
台湾が日本の領土になったのは明治28年(1895年)でした。
…
90パーセントを超えた就学率:
ここに今から74年前の昭和10年頃に台湾の清水公学校で使われていた
テキストの複製があります。これを見ると、本当にこれが植民地の学校
だったのだろうか、と思います。
…
日本は台湾を50年間統治しましたが、
1945年の時点で、台湾の子供達の就学率は90%を超えていました。
一方、オランダが統治したインドネシアは 1945年の時点で就学率はわずか3%です。
それが植民地というものです。
…
台湾には名古屋や大阪などよりも先に帝国大学が創られました。
台北帝国大学です。
日本は外地(台湾)も内地(日本)も分け隔てなく接していました。
台北帝国大学の存在が、その証拠です。
日本人の先生の「奪い合い」:
我々の世代は今でもよく昔を思い出して話をしますが、
内地<日本>から来たどの先生方も、台湾人の子供達を自分の子供のようにかわいがってくれ、
まるで自分の子供みたいに接してくれました。
戦後、日本と台湾が自由に行き来できるようになったとき、
ひとつのブームになったのが戦前の先生の奪い合いです。
<台湾から内地(日本)人48.8万人が日本列島に追われ、代わって中国大陸から蒋介石軍20万人がくると
虐殺テロがはじまり戒厳令がひかれ、長期にわたって鎖国状態が続いた。>
台湾に赴任した先生も、先生が東京から千葉、千葉から埼玉と転勤するように、
台湾でも台北から台南そして台中と各地を転々としました。
そのため一人の先生にたくさんの台湾人の教え子がいるので、
一度かつての日本人の先生が台湾に来るとなると、奪い合いが始まるのです。
一度先生と再会すると、先生を懐かしがって、話をするだけでなく、
帰り際に小型トラックに一杯、お土産を差し上げたりしました。
その先生は当時既に90歳近かったのですが、その先生がぽろぽろと泣いていて、
私たちも目を真っ赤にしていたのを覚えています。
あのときの先生の顔、私は忘れることができません。
日本人の先生方は本当に一生懸命勉強を教えてくれた。
本当の親のように接してくれた。
日本が戦争に負けて、しばらく会うことができませんでしたが、
やっと会えたときの感動は、言葉にすることができませんでした。
台湾で神になった日本人:
台湾には、日本人を神様として祀っているところがあります。
…
台湾に骨を埋めた明石元次郎:
…
その時彼は「死んだら骨を台湾に埋めてほしい」と遺言したと言います。
そして、遺骨は台湾に葬られました。
そして、立派な神社が建てられたのですが、陸軍元帥上原勇作は
「皇族以外でこれだけ立派なお墓が立てられたのは明石だけだ」
と言ったといいます。
しかし、戦後国民党<蒋介石>は墓を暴き、墓石を倒し、その跡地にバラックを建てました。
明石神社の脇には公衆便所を作って、鳥居はバラックの柱にしていたのです。
…
ところが台北市長だった陳水扁は金銭を払って退去命令を出して…
そして、明石閣下の墓は場所を台北三芝郷のキリスト教墓地に移し、今も台湾の地に
永久に眠っておられます。
…
蒋介石の国民党は台湾にやってきて大事に祀っていたお墓を暴き、蹂躙しました。
他にも汪兆銘は日本の敗戦後に墓が掘り返され、遺体は揚子江に投げ込まれ、
墓穴を二回も爆破させています。
一方、日本の歴史の中で、死んだ人の墓を暴いたという歴史ありません。
死者に対して鞭打つことはしません。
ところがシナ人<中国人>は平気でそういうことをします。
…
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かつての、日本人たち、つまり今で言う日本人と台湾人(本省人)たちの
絆の深さには感動するものがある。
しかし台湾は蒋介石が連れてきた大陸中国人の末裔、外省人たちがいる。
それに日本には反日NHKがいる。
日本と台湾の絆が破壊されつつある。
参考:
NHKスペシャル Japanデビュー
http://devlin.blog.so-net.ne.jp/2009-04-08
NHKを正す必要がある。
「世界を愛した日本」西村幸祐 責任編集 オークラ出版:
BLOG RANKING:
日本精神、最近しりました。いい言葉ですね。
by kirkwood (2010-07-25 09:15)
kirkwoodさん
本家日本に復活してほしいです、
日本精神。
次の本の拡散をしてほしいです、
いい本です:
台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい (小学館文庫) (文庫)
蔡 焜燦 (著)
by genn (2010-07-25 10:50)